キリスト教談義 日時: 2006/06/25 18:14 名前: αΩ(Tranquillity) HSさんのページでの議論の続き等もここでお願いします〜 Page: 1 | Re: キリスト教談義 ( No.1 ) 日時: 2006/06/05 08:34 名前: αΩ(Tranquillity) HSさんが見てくれているか不安ですが、質問の続きを。 (勝手ながら、整理するため少し遡って質問します) (複数質問しますがもちろん、回答はばらばらにしてもらってけっこうです。) 聖書が正しいと思う理由は何ですか? (神を持ち出さなくても)「人生=生まれる(生まれさせられる)こと」ではなく「人生=自分が生きること」なのですから人生の目的は自分がわかるのではありませんか? (神が居ると前提で)神が人間という「物質の塊」を特別視していると考える理由は何ですか? ダヴィンチコードの件について 多分、質問の答えは「聖書が〜〜〜」って感じに行くと思うので一番重要な質問は聖書の正しさについてだと思います Re: キリスト教談義 ( No.2 ) 日時: 2006/06/06 00:12 名前: HS こんにちは。 >HSさんが見てくれているか不安ですが、 見ていますよ^^) (少し仕事が忙しくなって来たので、そのうち、返信させていただきたいと思います。その間、新約聖書などを、読んで頂けると、今後の参考にもなると思いますが・・・。(←そういえば、先日は書き忘れましたが、図書館にもあると思います。) Re: キリスト教談義 ( No.3 ) 日時: 2006/06/06 08:18 名前: αΩ(Tranquillity) なるほど。早速今日探してみることにします。 Re: キリスト教談義 ( No.4 ) 日時: 2006/06/10 15:21 名前: HS こんにちは、時間ができました。 すみませんが、冷静な意見交換のための条件設定を、こちらにも再掲させて頂きます。ヨロシク。 *** >以下の条件設定で よろしければ、OKですが、いかがでしょうか? >@返信や回答のあとには、(原則として)(互いに)お礼を言う。(←このほうが、冷静な意見交換ができると思いますので。) >A意見交換の内容を、このHPに引用させて頂くことがありますが、いいでしょうか? >B返信には、数日かかることがあります。 >(あと、私としては、「議論」というよりは「意見交換」と考えていますので、よろしくお願いします。聖書にも、「何の益もないような言葉の争いを しないように」 (新約聖書 テモテ2:14)とあります。) *** Re: キリスト教談義 ( No.5 ) 日時: 2006/06/10 15:23 名前: HS まず、便宜上、ご質問に番号をつけさせて頂きます。 @聖書が正しいと思う理由は何ですか? A(神を持ち出さなくても)「人生=生まれる(生まれさせられる)こと」ではなく「人生=自分が生きること」なのですから人生の目的は自分がわかるのではありませんか? B(神が居ると前提で)神が人間という「物質の塊」を特別視していると考える理由は何ですか? Cダヴィンチコードの件について Re: キリスト教談義 ( No.6 ) 日時: 2006/06/10 15:32 名前: HS (繰り返しになりますが、せっかく掲示板を作っていただきましたので、こちらにも、掲載しておきます。) >@聖書が正しいと思う理由は何ですか? 「聖書を正しいと考える理由、即ち、聖書が神の言葉であると考える理由」は以下の通りです。 *** 「聖書が神の言葉である」ことを、一般には、「聖書が霊感されている」という言い方をします。 「霊感されている」とは、「神の息が吹きかけられている」という意味です。 大まかに言うならば、 「神と著者が、互いの霊と霊の関係において正しい関係で、(祈りつつ、時には、直接神からの預言をあずかって)書いた文章なので、 神の管理のもとで書かれた、という点において、適切なことがらが書かれている。」 という風に言えるかも知れません。 (これに似た経験は、私も、ある証しの文章を書く時に、祈りつつ書いていて感じたことがあります。 ・・・適切でない事を書きそうになると、心に平安が無くなり筆が止まる、と言う経験でした。その時に、「聖書の霊感」の意味の一端がわかったように思いました。) *** さて、聖書が霊感されていると考えるのが妥当な理由は、例えば、次のようなものです。 (他にもあります。) @キリストの啓示を受けていたパウロは、「聖書は、すべて、神の霊感を受けて書かれたものである」 (Uペテロ1:21)と主張している。 A「この幻を書き、これを板の上に明らかに記し、走りながらも、これを読みうるようにせよ」と、神がハバククに言われた。(旧約:ハバクク書2:2) B子なる神であるキリストは、「天地が滅び行くまでは、律法(←旧約聖書の創世記〜申命記などをさします)の一点、一画もすたることは無く、ことごとく全うされるのである。」(マタイ5:18)と言われた。 すなわち、キリストは旧約聖書を「神の言葉として肯定された」と考えられる。 C子なる神であるキリストは、弟子たちに、聖書をしるす時に、聖霊(←三位一体の神)が 弟子たちを守ると語って、新約聖書が霊感されたものである事を、すでに確証しておられた。(ヨハネ16:13) (上記は「聖書教理ハンドブック(いのちのことば社)ハロルド・リンゼル著」を参考にしました。) Re: キリスト教談義 ( No.7 ) 日時: 2006/06/10 15:37 名前: HS >A(神を持ち出さなくても)「人生=生まれる(生まれさせられる)こと」ではなく「人生=自分が生きること」なのですから人生の目的は自分がわかるのではありませんか? 【「人生=自分が生きること」なのですから人生の目的は自分がわかるのではありませんか?】 →「自分で、『自分の人生』の目的を決める」ことは、できるかもしれません。 しかし、「自分の、人生の『本来の目的』」は、わからないと思います。人は、みな、「気が付いてみたら、生まれていた」ので。 *** >[名前] : Tranquillity >[コメント] : > 確かに、(本当にそんなものがあるとすれば、ですが)「生まれてきた理由」は解りません。 >しかし、自分を「産んだ理由」は産んだ主体がわかります。 >それと、今後生きていこうと決意する主体は自分なので「生きていく目的」もわかります。 >あと、「自分の、人生の『本来の目的』」は、わからない、とのことですが、それは『本来の目的』は神から与えられている、という前提だと思います。 Re: キリスト教談義 ( No.8 ) 日時: 2006/06/10 15:42 名前: HS >B(神が居ると前提で)神が人間という「物質の塊」を特別視していると考える理由は何ですか? *** (私のHPに頂いた質問のコピーも貼っておきます。) >しかし何故人間という物質の塊だけを特別に見るのかが解らない。 >人間は原子の塊。他との違いは構成成分と構成。>それだけなのに、なぜ地球に住む、人間という種を特別視している・・・と決め付けるのか? *** 聖書に「神は、土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで、人は生きた者となった。(創世記2:7)」とあります。つまり、(人間は確かに、原子のかたまりですが)人には、動物と違い「神から与えられた霊」があるという事です。 また、創世記1:26節に「神はまた言われた『我々の かたち に、我々にかたどって(←性質を似せるということ)人を造り・・・」とあります。つまり、人は、他の動物と違い「神の性質に似せて造られた」というのです。 これが「人を特別視する理由」であると思います。 *** >[名前] : Tranquillity >[コメント] : では多分、問題は「聖書の正しさ」に集約されると思います。 Re: キリスト教談義 ( No.9 ) 日時: 2006/06/11 15:40 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s たぶん、一番重要な部分は「聖書の正しさ」だと思うのでそれについて意見を述べさせていただこうと思います。 大概の宗教がそうであるように、キリスト教も @、絶対者の存在 A、それが「啓示」を与えたという事実 B、疑うことが罪 ということを根拠なしの前提としておき、そこから「その宗教の正しさ」を説明しようとしているように思います。 しかしそれは説明以前に、前提@ABで既にその宗教の正しさが内包されている、と思います。 解りやすく言えば、「キリスト教は正しい」という言葉を「絶対者の存在、啓示、罪etc」と言葉を増やして言い換え、 さらにそれを暗黙の前提(@ABのような)として、証明を行ったように見せ掛け、前提を言い換えた文「キリスト教は正しい」を導いているように思えます。 前提「キリスト教は正しい」から始まって結論「キリスト教は正しい」で終わる。 前提の「キリスト教は正しい」事の証明を求められれば、もう一度「キリスト教は正しい」の言い換え@ABを出し、「キリスト教は正しい」と言う。 これは正しい証明展開ではないですし、結論を前提に置く循環論法です。 また、@ABを前提としなければ「キリスト教の正しさ」は証明できないように思うのですがいかがでしょうか? Re: キリスト教談義 ( No.10 ) 日時: 2006/06/14 09:28 名前: 常見 はじめまして αΩ(Tranquillity)さん。 突然で失礼かとは思いますが、私も意見交換の場に入れていただけますでしょうか? 仕事をしながらの書き込みですので早いレスが出来ない時もありますが、よろしければ参加させていただけたら…と思います。 以前 αΩさんのHPにも書き込んだのですけれどもその後すぐにHPがなくなってしまっておりまして、交流する機会を失ってしまいました。 どうそよろしくお願い致します。 Re: キリスト教談義 ( No.11 ) 日時: 2006/06/14 12:21 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s 参加させろだなんて失敬な!!あなたのような人は絶対に入れてあげません!!! ・・・いえいえ、冗談ですよw一度言ってみたかっただけですww もちろん、参加歓迎いたします。 というより、あまり「議論の形式」(主張が二つあって、参加者がいて、見ている人が居て、とか)にはこだわっていないので、 どなたでもいつでも、何か言いたいことがあったら言ってくれて結構です。 >以前 αΩさんのHPにも書き込んだのですけれどもその後すぐにHPがなくなってしまっておりまして、交流する機会を失ってしまいました。 引っ越ししていたので更新が面倒になり閉鎖?してしまいましたw Re: キリスト教談義 ( No.12 ) 日時: 2006/06/14 17:40 名前: 常見 それでは、お言葉に甘えて遠慮なく参加させていただきます。 αΩさんはすでにご存知かどうか知りませんが、私はクリスチャンです。 HS先生もクリスチャンですので、2対1の対決となってαΩさんには分が悪いようで申し訳ないのですが…。 私はαΩさんのコメントを読んでいて非常に論理的だし、頭のいい人だなという印象を持っています。 別にお世辞を使うわけではありませんが…。 他のスレで、話の中にしきりに「前提」という単語が出てきているのですが、この前提というのがとっても重要になりますよね。意見をする場合は特に。 もちろん私たちクリスチャンの前提は何かといわれれば聖書になるのですが、なぜ聖書を前提において話すのかというようなやり取りをこのスレでされていますよね。 でも私たち聖書を信じる者も最初から聖書を信じていたものは一人もいません。なぜなら聖書に書いてあるものが人間が考えて理解できる物ではないからです。 こんな書物のどこに信憑性があるのか?考えても理解し難いはずです。 しかし、聖書はまったくデタラメの書物であるとしても、逆に人間の知識の延長線上に何らかの希望を得る答えがあるのでしょうか? αΩさんのコメントを見ていても、αΩさんの思想の延長線上に人間の、そしてαΩさん自身の存在価値や生きる意味を見出すことが可能なのでしょうか。 何らかの希望がある、と明確に、論理的に説明できるでしょうか。 意地悪な質問ですみませんね。いかがでしょうか。 Re: キリスト教談義 ( No.13 ) 日時: 2006/06/14 23:56 名前: HS 常見さん、ようこそ。 >2対1の対決となって・・・ もちろん、争いごとをしているわけではないんですが^^) ただ、(初めに書いたように)ここで、3人(以上?)で、建設的で、前向きな意見交換ができれば、皆にとって、有意義で、とても、ためになるように考えています。 (言うまでも無く、神の存在は、完全な否定も、完全な肯定も、「論理」では不可能と考えますので。) Re: キリスト教談義 ( No.14 ) 日時: 2006/06/15 01:32 名前: HS (No.8の続きです) >Cダヴィンチコードの件について >「時事ですが西暦300〜400年頃?にローマ皇帝に聖書が都合良く編纂されたのではないか、という意見はどうお考えですか?」 キリスト教界では、397年の「カルタゴ公会議」で正典聖書が確定されたとされているようです。 「ローマ皇帝に聖書が都合良く編纂された」かどうかの「事実関係についての」検討は、歴史文書の研究という、かなり専門的な領域になると思いますので、これ以上の、コメントは控えさせて下さい。 (大切な、問題ではあると思いますが。) ちなみに、ダヴィンチ・コードについては、石井希尚牧師(=ゴスペル・シンガー)のHPの解説が役立ちそうです。 http://www.marre.jp/ Re: キリスト教談義 ( No.15 ) 日時: 2006/06/15 16:13 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s >しかし、聖書はまったくデタラメの書物であるとしても、逆に人間の知識の延長線上に何らかの希望を得る答えがあるのでしょうか? >αΩさんのコメントを見ていても、αΩさんの思想の延長線上に人間の、そしてαΩさん自身の存在価値や生きる意味を見出すことが可能なのでしょうか。 ではとりあえず、項目別に書いていこうと思います。項目の順番は説明の都合です。 生きる意味→「意味」という言葉の意味するところが解らないので、とりあえず「生きる理由」と「生きる目的」に分解して書いておきます。 私が生きる理由→私の場合単純(というか、人間はみんなそうだと思います。自覚していないだけで。)で「死んだほうが苦痛が多いから」です。 私は肉体的苦痛が嫌いで、死ぬ時の肉体的苦痛はかなり大きいだろうと予想できます。よって、それを先送りに出来るのなら出来るだけ先送りしたい。 あと、自分が消滅する、というのも精神的にかなりの苦痛です。これも先送りに出来るなら、できるだけしたい。 それと比較して、生きることの苦痛はそれほど大きくありません。毎朝起きるのも、学校で勉強をするのも、テストで悪い点を取るのも「物理的な予想範囲内」なので 予め覚悟の出来る種類ですし、私はどちらかというと精神的苦痛に鈍感なので、それほど苦しむことは無いだろうと思います。また、実際あまり苦しくないです。 (世の中には自殺しようとする人も居ますが、それはこの苦痛の感じ方の違いから来るのでしょう。感じ方は個人の価値観に属するので「そんなはずはない!君は幸せなはずだ!」とか 言うことの出来ない範囲のものです。よって、自殺に関してはやりたい人は勝手にすればいいと思います) 生きる目的→これも(上から予想できるかもしれませんが)単純です。最大限の苦痛の回避と幸福の探求。 出来るだけ苦痛をさけ、出来るだけ幸福を得る。もちろん幸福の形は人によって違います。 金かもしれませんし、愛かもしれませんし、殺人かも知れませんし、善行を行うことかもしれません。 しかし、どれを目的にするにしても間違っているということは無いですし、考えが罪であるということは無いと思います。 たとえば、誰かが、私を作る要素全てを受け継いだら私が今やっている行動以外絶対するはずが無い、と考えているからです。 (つまり、あるとき誰かが私を作る要素全て(私の経験(=記憶)、肉体、立場)になって、元の記憶を失ったとしたら私が今やっている行動意外、取りようがありません。 なぜなら、それは私自身だからです。) とはいえ、これは殺人を犯しても罰せられる必要がないとかの考えではなく、「法律上、なにかしら行動をしたら相応の罰(結果)は受けるべきであるが、そうなったことへの責任は当人には無い」 ということです。 (続きます) Re: キリスト教談義 ( No.16 ) 日時: 2006/06/15 16:45 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s (続きです) 存在価値→人間の存在価値、とのことですが答えとしては「そんなものありません」です。そもそも、それがあるとして物事を考えることが馬鹿らしいように思います。 人間はただの「物理的現象」です。鉄が酸化するのが正義でもあくでもないように、氷が解けるのが正義でもあくでもないように、フロンがオゾンを破壊するのが正義でも悪でもないように、 人間が死のうが生きようが、それはただ何かしらの原因があってそうなったという程度の問題でしか在りません。 そのなかで人間が出来ることは、「生きる理由・目的」で書いたとおり、個人の幸福を探求することです。 (ただし、人間から見た人間の価値ならば幾許か在るといえます) (詳しくは海さんとの議論参照のこと) 希望を得る答え→希望とはいったい何のことですか? それが、なにか都合が悪くなったら神が助けてくれるとか、死の恐怖から一時逃れることのようなものだとしたら、私の思想に希望はありません。 (しかし、正しいか正しくないかも解らないのに、自分に都合のいいというだけで物事を信じるのは、現実からの逃げのようにしか思えません。) 私にとっては思想によらず、今私が苦痛の中にいないという事実自体が希望なのですが。 そもそも、「希望で無いもの、思想、理論」とはいったいどのようなものを言うのかが良くわかりません。 >HSさん >(言うまでも無く、神の存在は、完全な否定も、完全な肯定も、「論理」では不可能と考えますので。) 一言づつ反論するのも粘着質で何か嫌ですが、一応述べておきます。 確かに、神の存在は”完全”な否定も肯定も出来ません。 しかしそれは、「私(αΩ)こそが唯一神である」ということを”完全に”否定も肯定もできないのと同じことです。 Re: キリスト教談義 ( No.17 ) 日時: 2006/06/18 17:52 名前: 常見 こんにちは。 コメントが遅くなったしまい、すみません。 αΩさん、私のぶしつけな質問に対し、丁寧に答えてくださり、ありがとうございます。 さて、αΩさんのコメントから推測するに、αΩさんの現在の考えでは、人間には「自由意志」というものは全く存在しないとお考えでしょうか。 あらゆる要素が必然的にそろえば、出る答えが必ず一致する、ということになるということですね。人間には物事を選ぶ自由が一見あるように見えるが自由がないということです。 それに反し、「自由意志」がある状態とは、条件が出揃っても人間は「A」か「B」を本人の意思によって選択でき得ると考えるということです。 こんな説明をするまでもなく、αΩさんはご理解いただいているとは思いますが…。 私には、この「人間に自由意志」がない、ということがとっても絶望的で悲しくてしょうがないことであったのです。これは全く私の個人的感想なんですけど…。 そういう意味では私にとっては「人間には自由意志があり得る」ということ自体が希望とも言えます。 自由意志がないことは絶望です。 殺人を犯す人はどうやっても殺人を犯すのです。(人間にはわからないだけです) 苦しみを背負う人はどうやっても苦しむのです。 これはもう絶望です。駄目な人はどれだけがんばっても駄目。がんばれば変わると人間は「思う」のですけれどもそう思えるのも、あらゆる要素が本人の意思以外のところですでに決まっているだけだと考えられます。 また、もう一つの絶望は「死」です。 αΩさんがおっしゃるように人間も動物も誰かに教わらなくても自然に「快」を求めて生きますが、全ての生き物には「死」がやってきます。 動物の気持ちは私にはわかりませんが、人間には動物よりもはるかに「死」に対する恐怖が自然に備わっていると思われるのですが、これも偶然とするか、そのように人間が人間よりが存在する以前に存在するものによって造られたからそうなのかは誰にもわかりません。 しかし、感情、意思、知恵があること自体は、とっても不思議なことではないでしょうか。動物にもこれらのものはあると私は考えています。しかし偶然にそれらが備わっているということがとっても不思議です。 不思議だから神が造ったというのはあまりにも短絡的かもしれませんが、論理では説明しきれないところに、感情があるように思うのです。なぜ人間の感情はこのようにあるのでしょう? 本当に苦しい!痛い!悲しい!怖い!というところを通らされるなら人間に理屈は必要なくなってしまいます。 これも乱暴な理屈であるとも取れますが、苦しいという事実、痛いという事実、悲しいという事実、そういう事実を突きつけられたとき、人間は自然に、目に見えないものを恐れ、頼りにしようと動きます。 これも不思議だと私は思うのです。 先ほど書いたように、人間が感情、意思、知恵までの存在であるならひょっとしたら、自由意志はないと私は思います。しかし、私は人間にはこれら(感情、意思、知恵)のさらに奥に「霊」が存在することを信じています。以前は信じませんでしたが…。 「霊」が存在するからこそ、人間に「自由意志」が存在し得ると信じています。 そして、聖書は生まれながらの人間は、この「霊」が死んでいる状態であるといい、基本的には霊が死んでいる状態では、自由意志が働けない…と言っていると私は考えています。 霊が死んでいる状態ではαΩさんの言われている理論に同意せざるを得ない状態と言えます。 しかし、霊が生きるなら、感情、意思、知恵が以前の状態とは違った作用をすると考えます。 すみません、今日はこの辺で…。 このように大前提から小前提への話になるとどうしても理屈的にどちらの大前提をとるかによって、どうとでも説明できるような話になってしまいますね。 結局のところ、創り主はいるのか、いないのか、という点のどちらを信じるか、が全ての大前提となるように私は思います。 私から言えば、創造主がいないということも、ただ「そう信じているだけである。」と言えるのですが…。 そして、以前は創り主など「いない」と堅く信じていた私も、今は聖書の一番最初に「はじめに神が天と地を創造した。」という言葉を堅く信じるようになったというだけといえばそれだけの話です。 αΩさん。また反論、意見等あるかとは思いますが是非、私のこのつたない文章でも私のこれらの意見も一意見としてご考慮いただけたら幸いです。 お読みいただけたことに感謝します。 Re: キリスト教談義 ( No.18 ) 日時: 2006/06/18 18:33 名前: 常見 すみません。 言い訳するようで申し訳ありませんが、霊が死んでいると書いたところは、仮死、もしくは瀕死としてください。死んでいるとした方が判りやすいかと思いましたが訂正いたします。 よろしくお願い致します。 Re: キリスト教談義 ( No.19 ) 日時: 2006/06/18 23:19 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s >それに反し、「自由意志」がある状態とは、条件が出揃っても人間は「A」か「B」を本人の意思によって選択でき得ると考えるということです。 たぶん、上の文の「意思」という言葉の解釈の相違から以下の「自由意志」云々の問題が来ているように思います。 私が考える中での「意思」とは、脳の物質の動き含め、すべての物質の動きにあるものです。(消しゴムの中の原子の動きとか、雨が落ちる動きとか、地球の動きとかです) なので(私にとって)脳を介した判断であればそれは「自由意志」になる、という考え方です。 >さて、αΩさんのコメントから推測するに、αΩさんの現在の考えでは、人間には「自由意志」というものは全く存在しないとお考えでしょうか。 いえ、「自由意志」は人間には完全に備わっていると思います。 たぶん常見さんは、「人間の動きが必然的に予想できるとすれば自由意思は無い」、という考え方だと思いますが 逆に「人間が完全にランダムな考えを起こすなら自由意志はある」というのが正しいとは思えないので、自由意志はあると思います。 たとえば、1時間目が体育なのに”何の理由も無く”数学の用意をする。また、「全く同じ条件で(経験も肉体も時期も人格も)」今度は化学の準備をする。 あるいは、学校に行きたいのに頭の中の何かランダムに動くような要素にしたがって進む。(頭の中にサイコロがあって数字で進む方向を決める、など) お腹がすいているのにご飯を食べず(食べられないわけではない)、疲れて倒れそうなのに運動しようとする。 こんなのは自由意志とはいえないのは明白です。なぜなら自分で決めたとはいえないからです。 自由と偶然とは違います。 そして自由意志とは、「自分で決めること」、「自分の脳という循環を通して行動すること」、「自分で原因から結果を導く働き」だけです。(決して「必然でなく」動くことでは在りません) もし、常見さんのいう「霊」が在ったところで何かしらの条件がそろえば、ある一定の行動はするのではないですか?(たとえば、神に命令されれば従う、など) そして、私は私の行動を自分で判断して選択していると”実感している”(ここがけっこう大切です)ので、常見さんが言う「希望」を持っているように思います。 (世界が必然であっても予測は原理的に絶対出来ませんしね。) (予測が出来ないというのは、オセロのマス数とコマで、囲碁の再現が出来ないのと同じ理屈です) >殺人を犯す人はどうやっても殺人を犯すのです。(人間にはわからないだけです) >苦しみを背負う人はどうやっても苦しむのです。 違います。殺人を犯す人は「殺人をする理由があって」殺人を犯し、苦しみを背負う人は「苦しみを背負う理由があって」苦しみを背負うのです。 逆に、(何かしら理由があれば)善行を行う人は善行を行う。なにも原因が無く殺人を犯すことにされたり、苦しみを背負わされたりしない。 すべて、自己の判断を通して結果を導ける。私はそれで十分だと思いますが。 ((肉体レベルで)自由意志が無い状態とは、たとえば自分で肉体の感覚や感情はあるにもかかわらず、誰かに操られるなどして自らの意思で体を操れないようなことだと思います) もうすぐ寝る時間なので「死について」の部分に対する意見は明日したいと思います。 順番が前後してしまいますが、ここだけは・・・。 >結局のところ、創り主はいるのか、いないのか、という点のどちらを信じるか、が全ての大前提となるように私は思います。 私は、居るとも居ないとも考えていません。 ただ何かしらの「原因」があった、また、その「原因」は人間を特別視はしていないだろうとだけ考えています。 (詳しくはまた・・・。) Re: キリスト教談義 ( No.20 ) 日時: 2006/06/18 23:05 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s >訂正いたします 訂正、ですがご自分でした発言でしたら、発言の枠?の右下にある「スパナ」マークをクリックして、 発言の際定めたパスワードを入力すれば訂正が出きます。 Re: キリスト教談義 ( No.21 ) 日時: 2006/06/19 01:39 名前: HS 【NO.9】 >たぶん、一番重要な部分は「聖書の正しさ」だと思うのでそれについて意見を述べさせていただこうと思います。 ご意見ありがとうございます。 確かに、「聖書の正しさ」も重要なのですが、 あえて、私の「ホンネ」を言わせていただくならば、 「一番重要な部分」は「聖書の証言をとおして、キリストのたぐいまれな人格に触れ、 「『神であるキリスト』と個人的に出会うかどうか」であると思います。 (続きます) Re: キリスト教談義 ( No.22 ) 日時: 2006/06/20 19:20 名前: 常見 いつも返信が遅くなってすみません。 最近仕事が忙しくて…。 まとまった時間が取れましたら、必ずお返事しますのでもうしばらくお待ちくださいね。 Re: キリスト教談義 ( No.23 ) 日時: 2006/06/22 08:30 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s HSさん >「一番重要な部分」は「聖書の証言をとおして、キリストのたぐいまれな人格に触れ、 すいません。私が言った「重要な」というのは「キリスト教の正しさについて意見交換をするうえで、中心となる問題」という意味でした・・・。 常見さん >人間には動物よりもはるかに「死」に対する恐怖が自然に備わっていると思われるのですが これはどのようなところからそう思われるのでしょうか?苦痛(死への近づき)を回避しようとする、という働きで人間も動物も変わりは無いと思うのですが。 >しかし、感情、意思、知恵があること自体は〜〜〜〜 前述しましたが、私は全ての物に意思は備わっていると思います。 >これも乱暴な理屈であるとも取れますが、苦しいという事実、痛いという事実、悲しいという事実、そういう事実を突きつけられたとき、人間は自然に、目に見えないものを恐れ、頼りにしようと動きます。 そうとは言い切れません。たとえば、その感覚を覚悟して受け入れる、という選択肢もあります。私の場合は、死後の意識の喪失という安息に希望を見出します。 Re: キリスト教談義 ( No.24 ) 日時: 2006/06/22 22:08 名前: 常見 αΩさん、いつも返事が遅くてごめんなさいね。 私の方から投げかけておいて、失礼な発言かもしれませんが、言葉のやり取りで互いに自分の主張を言い合うだけのこの場とならなければいいな…と思っております。 互いの前提はもちろん違うわけですから、そうなる可能性が十分高いわけですが、結果的にこれ以上、やり取りしても埒があかん…というのは避けたいのです。 ということを書きつつ、続けたいと思います…。 さて、「自由意志」についてですが、私はもちろん人間に自由意志は完全に備わっていると考えています、今は。 そして、「自由意志」を持つことができる条件として、「霊」を持つ存在である。ということを言いたいわけです。 聖書では、神が「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と書かれています。 この神が霊であり、人にもその神に似た者として、霊を特別に与えたとされています。 こうして、この霊(人間)は本当に自由に「選ぶ」ことができるようになったと考えているのです。 αΩさんは>私は全ての物に意思は備わっていると思います。 とされていますそして >私が考える中での「意思」とは、脳の物質の動き含め、すべての物質の動きにあるものです。(消しゴムの中の原子の動きとか、雨が落ちる動きとか、地球の動きとかです) とありますが、このコメントには少し驚きを覚えました。 もし、人間の脳も単なる物質の塊でしかないのであれば、物理法則に従うだけの単なる複雑な機械です。 そこにランダムが発生する余地が起こる事はないはずです。ビリヤードの理屈と同じです。 しかし、実際にはこの通りではもちろんありません。 それは人間が霊的な存在であるからです。 もう時間がなくなってきました。 それからHS先生にも質問ですが、私はこの「自由意志」について誰かに教わったことなどはないですし、はっきり言って確信している、断言できるという段階ではないのですが、先生の見解も教えていただけたらと思うのですが…。 話をややこしくしてしまうでしょうか? 単純に確信を得たいという理由からです。 よろしくお願いします。 Re: キリスト教談義 ( No.25 ) 日時: 2006/06/23 16:53 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s >> 私の方から投げかけておいて、失礼な発言かもしれませんが、言葉のやり取りで互いに自分の主張を言い合うだけのこの場とならなければいいな…と思っております。 そうですね。お互いの前提についても自分の中でいろいろ考えてみることにします。(書きませんが) しかし一応今の流れは、 (前提となっているであろう)聖書の正しさについて述べた→聖書信仰以外の部分に希望があるのかと聞かれた→聞かれた部分について答えた→それについての意見(今) ですので、多分「前提」についての意見交換となっています。なので「埒が明かん」という状況は 「(根拠無く)私はこうだと思っているのに、なぜ理解しないんだ!もう帰る!!」あるいは他人の意見を読まずに(理解せずに)意見を書くような状況にならなければ台ジョブだと思われます。 >> そこにランダムが発生する余地が起こる事はないはずです。ビリヤードの理屈と同じです。 >> しかし、実際にはこの通りではもちろんありません。 なるほど。ここに見解の相違の核心があるように思います。 1、まず「人間がランダムな動きをする」となぜ「自由」といえるのかを伺いたいです。(外部からの情報に行動が制約されない、という意味でしょうか?) 2、次になぜ人間にランダムが発生しているといえるのでしょうか?  常見さんは気づいているかもしれませんが常見さんの意見は  (A)「人間は・・・・ランダムである」→「それは人間が霊的な存在であるからです。」    (B)「それは人間が霊的な存在であるからです。」→「人間は・・・ランダムである」   の二つに読み取れます。そして、    (B)だとすれば、"よくある"循環論法があるように思います。(霊的な存在であるから自由意志(ランダム)がある→よって自由意志(ランダム)には霊が欠かせない→よって霊的な・・(はじめに戻る))  ここでは、「霊的な存在である」と「霊的な存在ならば自由意志がある」理由を伺わなければなりません。  (A)だすれば「人間は・・・・ランダムである」の理由が書かれていないようなので、伺いたいです。 (とりあえず、1の説明をして頂きませんと、2について説明をしていただいても無意味ですので・・・。) >>聖書では、神が「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と書かれています。 このあたりはいちいち否定はしません。(理由はこのレスの一番上の、意見交換の流れを見ていただければ解ると思います) 感想としてはやはり、「意見の根底にあるのは聖書の正しさである」(もちろん、正しさについては前述の通り)というところでしょうか。 Re: キリスト教談義 ( No.26 ) 日時: 2006/06/24 19:55 名前: yona 突然横レス失礼しますね。 こんばんは。 αΩ(Tranquillity)さん、聖書は読み進んでますか? 横レスしときながら、考えがまとまってないのですが、 それに、みなさんのお話正直難しくてよくわかりません。 というわけで、バカの小話と思ってくださいね。 創造の神と、イエスキリストを神として信じるのは (ようするに、聖書の神を信じるというのは) 知識の力や理屈や理論、哲学、その他もろもろの 頭で考えるところと違う次元で働くんですね。 私はついこの間まで、自分の親族が亡くなって初めて、自分の家の宗派を知る、というような種類の日本人でした。(仏教です) でも、仏陀という人物がとても好きで、 仏陀の教えもまた、真理であり、 また、聖書も、人生のバイブルというくらいですから 真理が書かれていると考えていましたが、 だからといって、自分がキリスト者になるとは 夢にも思っていませんでした。 イエスキリストが歴史上存在していた人だという 認識もありませんでした。 アダムとエバから始まる話も物語としてしか 捉えていませんでした。 しかし、あるきっかけから、 この聖書には、いったいどんな真理が書いてあるのか? それが私の好奇心となり、それを知りたいと思うことから始まりました。 その後、聖書やそれ以外のキリスト教に関する本などを読めば読むほど混乱していきました。 そして、結局私の疑問は そもそも神はいるのか?神ってなんだ?でした。 それを、クリスチャンの友人知人に聞いても、 彼等はすでに、 神を確信している、或は、 神がいないということが確信できない、 また、それを、個人で体験している、という事実から 何を質問しても私の満足いく答えは得られませんでした。 なぜかというと、 私は、クリスチャンにはなりたくなかったからです。 だから、聖書を信じることができない理由を探していたわけです。 そして、聖書を信じる人が、それを信じる根拠を知りたかったからです。 しかし、クリスチャンが聖書を信じ、神を信じ、 イエスキリストが救い主だと確信するにいたったのは 体験です。 別な言い方をすれば、聖霊のなせる業、ということになります。 なんて、偉そうなこと書いちゃいましたが、 誤解を生む表現してたら訂正してください。 ただ、聖書に書いてあることを 丸ごと信じて、神を信じるという人は少ないと感じます。 逆に、HSさんのHPの書き込みにあったように、 まさに崖から飛び下りるような覚悟を ほとんどの人がしているのではないでしょうか? 私はそうでした。 何が正しく、正しくないのか、 何が真理で、また、真理ではないのか? 聖書の神が唯一の神なのか、否か、 神はいるのか、いないのか? それは、知識で完全な答えを出すことを 私はできませんでした。 敗北感を感じた私は、 自分の感情と、体験と、聖書の言葉が 一直線でつながる感覚が 何度も体験によって繰り返されました。 それはとても些細なことで、 自分の思い込みか、気のせいか、 でも、充分自分の核心を変化させる事柄が続きました。 そういう過程を経て、私のクリスチャン人生が始まってしまいました。 それに迷いはありません。 なぜかというと、今までの自分とちがう 感情や、人との対応の仕方だったり、 ようするに、自分の生き方に新しい選択肢、または答えが提供されるようになったからです。 それによって、苦しみからかなり解放されました。 私が、神を信じる根拠はそれで充分だと感じています。今のところ。 長くなって、本当にすみません。 自分の表現が、大きな誤解を生まないよう祈るばかりですが、 なぜか、書かずにはいられませんでした。 αΩ(Tranquillity)さん、 気が向いたら、 リーストロベル氏の「それでも神は存在するのか?」という本を読んでみて下さい。 聖書の正しさに対するヒントになるかもしれません。 私にとっては、とてもおもしろく読みやすい本でした。 長々と本当に、失礼いたしました。 Re: キリスト教談義 ( No.27 ) 日時: 2006/06/25 13:33 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s まず自分のレスに対するレスですが、私の発言に解りにくいところがあったかも入れないので補足しておきます。 「>>聖書では、神が「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」と書かれています。 このあたりはいちいち否定はしません。(理由はこのレスの一番上の、意見交換の流れを見ていただければ解ると思います)」 ここに書かれている"理由"とは、「流れ上、聖書の正しさについての意見交換なのに、聖書からの引用を、正しいとする理由にしてしまうのはおかしい」というものです。 >>yonaさん 神という存在についてがお話の主題だと思ったので(違ったらすいません)とりあえず、それについて書いてみます。 まずは、HSさんが以前言われていた(たぶん) 「どんな賢い哲学者であっても、神はいるのか・いないのかを証明することはできない。なぜなら創造主が、人間の脳ミソをそういう風にしか造っていないからである。」 について。 分析的に示すと、「Aは居るか、居ないかわからない。なぜなら、Aは我々をそのようにしたからである」ですが、 よく読めば解るように前半「Aは居るか、居ないかわからない」では、存在が不確定とされているのに、 後半「Aは我々をそのようにしたからである」では、Aの存在が何の理由も無く正しいこととされてしまっています。 ちなみに、これを使えば「神は居るとも居ないとも証明することは出来ない。なぜなら、神は居ないからだ。」とすることも出来ます。 次に神の概念についてですが、おそらく、一般的な神の概念とは 「私たちが居る"世界"の外側から、私たちを見、あるいは影響を及ぼしている存在」 みたいな感じじゃないでしょうか? これは「言葉ではあらわせない姿」という言葉に似ています。 「絵に出来ない姿」、「音楽では伝えられない音」は表現できませんが、「言葉では表せない姿」は「"読んだ人が見たことのある姿"の否定形」として表現できてしまうのです。(実際に読んだ人が想像する"姿"は言葉で表せる姿になるのですが。) つまり、神とは音楽や絵画には存在しない「否定形」という特殊な形が産む幻想です。 「世界」という言葉の範囲は読む人によって変化します。 江戸時代の人より、海外旅行したことのある現代人のほうが、そして私たちよりも、宇宙旅行を体験したことがある人ほうが、「世界」は広いでしょう。 同様に、(私たちが言う)「神の世界」へいったことのある人は、私たちより世界が広いでしょう。(もちろん、神の世界があると仮定してですが) しかし、「神の世界」へいったことのある人はそこを神の世界だと証明できません。あるいは、感じても時間が経てば「ここは偽の神の世界ではないか?」と思わざるを得ませんし、"実際にそうなのでしょう"。 なぜなら、体験してしまったことはその人の"世界"の範囲内に入ってしまうからです。 また、特定の宗教の人で、そこにいた"神"の姿が自分の信じる宗教と違っていた場合は(それまで実際に"神"が世界を操っていたとしても)それを神だと認めずに「もっと外側に本当の(=自分の宗教の言う姿の)神がいる」というでしょう。 このように、「〜が絶対に居ない」と証明することは出来ません。なぜなら、(外側が存在しないとしても)調べた範囲の外側が「否定形」という風に形作られてしまうからです。 しかし、それ故に、「居ないとは言い切れない」という主張は「ウルトラマンが現実に居ないとは言い切れない」や「超能力者が居ないとは言い切れない」という主張と同じように無価値なのです。 そして、実証されていないもの、信じるべき妥当な理由が見当たらないものは信じるに値しないと私は思います。(聖書の記述には何か、道徳教育的で恣意的なものを感じざるを得ませんし・・・) Re: キリスト教談義 ( No.28 ) 日時: 2006/06/26 03:04 名前: HS >>「一番重要な部分」は「聖書の証言をとおして、キリストのたぐいまれな人格に触れ、 >すいません。私が言った「重要な」というのは「キリスト教の正しさについて意見交換をするうえで、中心となる問題」という意味でした・・・。 そうですか、了解しました。 Re: キリスト教談義 ( No.29 ) 日時: 2006/06/26 03:11 名前: HS >大概の宗教がそうであるように、キリスト教も >@、絶対者の存在A、それが「啓示」を与えたという事実B、疑うことが罪 >ということを根拠なしの前提としておき、そこから「その宗教の正しさ」を説明しようとしているように思います。 >しかしそれは説明以前に、前提@ABで既にその宗教の正しさが内包されていると思います。 >解りやすく言えば、「キリスト教は正しい」という言葉を・・・・・、 >また、@ABを前提としなければ「キリスト教の正しさ」は証明できないように思うのですがいかがでしょうか? ご意見ありがとうございます。興味深く拝見しました。 @質問なのですが、「キリスト教を正しいと証明しようとする人」の、何か書いたものを、どこかで見られたのでしょうか?もし、そうでしたら、私も興味がありますので、お教えいただけると感謝です。 もしかして、私のHPのどこかでしょうか^^) ちなみに、私は、「信ずる根拠」という書き方をしていたと思います。 結論としては、私は、「キリスト教が正しいという証明は、もともと不可能である」と思っていますので、 申し訳ありませんが、今回のご質問にはうまくお答えできないように思います。 A私の考えでは、「キリスト教を正しいと証明する」ことは、不可能と思います。 例えば、論理学で、「ゲーデルの不完全性定理」というのがあるそうですが、それによると、 「全ての命題は、完全な、証明はできない」ということのようです。(←私も、それ以上詳しくは、わかりませんが、論理学・数学においては、広く認められた原理のようです。) ちなみに、以下のようなものだそうです。 「第一不完全性定理」:決定不可能な数学的命題が存在する。 「第二不完全性定理」:数学が無矛盾であるかぎり、数学は数学自身の無矛盾性を自分では証明できない。 (私のHPの「エッセイ」→「本当は、神を求めた人:ゲーデル」でも、少し触れています。 かえって、αΩさんが、混乱しないことを祈らせていただきますが、 もし、真理を求める参考になるなら、HPのその箇所にあげた、ゲーデルの参考書は、読みやすい方だと思います。) 吉永氏は、不完全性定理の意味について こうわかり易く説明しています。 「もし、『これこそ完全な理論だ』というものがあり、それが見出されたら、それ以後、人は何を考え、何を行なえばいいというのでしょうか。」 つまり、「キリスト教も、『これこそ間違いない』という、完全な証明はできない」ということであると、私は理解しています。 *** Re: キリスト教談義 ( No.30 ) 日時: 2006/06/26 03:15 名前: HS *** αΩさんが「無神論でも、有神論でもどちらでもいいが、はっきりと信じられるものが欲しい」という意味のことを、どこかで、おっしゃっていたように思います。 (「ゲーデルの定理が正しい」ならば、 「結局、『定理のひとつである』ゲーデルの定理が正しいことも、証明できない」のかもしれません。その辺は、私には論理学の力がないので、たいへん申し訳ないのですが、わかりません。) ただ、仮に、ゲーデルの定理が正しく、かつ、 αΩさんが、「はっきりと、信じられるものが欲しい」のであるならば、残念ながら、 「『完全に』証明されるものは、この世には存在しない」 という可能性がある事だけは、知っておいたほうが良いかもしれません。 かと言って、失望しないでくださいね。 (キリストは、「あなたがたに、希望を与える」と言われましたから。) *** したがって、私が今、言えることは、 (私も、自分なりに、真理と真実を求めて来た者のはしくれとして、 あえて、αΩさんへの「アドバイス」と言わせていただきますが・・) 世界の何億という人が、「神」であると信頼している「キリスト」は、 「真理を求める人は、私のもとに来るはずである」 「私の言葉のうちにとどまっているなら、真理を知ることができます。」(ヨハネ福音書8:31) とおっしゃいました。 また、キリストは「私自身が真理である、道である、命である」(ヨハネ14:6)と言われました。 また、聖書に、「神に近づきなさい。そうすれば、神もあなたに近づいて下さいます。」 とあります。 したがって、ぜひ、「聖書そのもの」を読まれることを、お勧めします。 (特に、新約聖書。中でも、「福音書」と「使徒の働き」には、人類の歴史上に起きた、 「神の地上降臨」 による「驚きの歴史」が、詳細に書かれています。 そこが、聖書の「核心部分」であると思います。 キリストによる「病の癒しの奇跡」につまづいて、読むのがバカバカしいと、やめる人もいますが、実にもったいないことです。 「もし、神ならば、病をいやすことなど、当然できるはずである」 というふうに、読むべきだと思います。 (わかりにくいところは、最初は、とばして読むのがコツとされています。) Re: キリスト教談義 ( No.31 ) 日時: 2006/06/26 03:19 名前: HS *** 「キリスト教は正しい、という証明はできない」と思いますので、ぜひ、 「今も、αΩさんのことを心から心配し、愛しておられる、子なる神・キリスト」に、 直接出会っていただければと思います。 *** 実は、その方法は、単純です。 ヨハネ黙示録3:20にあるように、キリストは、 「αΩさんの、心の戸の外に立って」たたいています。 「あなたが、本当に神なのかどうか知りたいので、入ってください」 というだけで、キリストを直接知ることができると思います。 「なぜ、知ることができるようになるのか」は、やはり、うまく言葉では説明できないのが残念です。それは、聖書に、 「キリストを受け入れた者は、(本来あるべき人間の姿に)新しく生まれ変わることができる。」とあるとおりです、としか説明できないのです。 そして、この「新しく生まれ変わる」ことは、とても素晴らしいことです。 *** 今回、(自分で言うのも変ですが)「とても大切なこと」を書かせていただいたつもりです。 ぜひ、じっくりお読み下さいますように、お願いします。 Re: キリスト教談義 ( No.32 ) 日時: 2006/06/26 20:08 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s じっくり考えてみました。 >>「全ての命題は、完全な、証明はできない」ということのようです。 上の文は少し、違うように思います。 (さすがに超数学とか数論とかは解りませんが、不完全性定理については別の問題の本でかじる程度に読みました。感想としては自己言及のパラドックスの変形みたいな感じでした。) 多分、上の文は「第二不完全性定理」を元に導き出した文だと思いますが、考える上で重要な部分が抜けているようです。 HSさんが書かれた上の文は正しくは、「『矛盾が無い限り』全ての『公理系』(命題ではない)は、『自身によって』自身を正しいと証明することは出来ない」になると思います。 『矛盾が無い限り』と『公理系』については、書き逃しみたいなものだと思いますし、ここではそれほど重要でないので追求はしません。 『自身によって』(ここが一番重要だと思います) たとえば、数学は『数学を用いて』正しいと証明することは出来ませんし、キリスト教の正しさをを『キリスト教を用いて』正しいと証明することも出来ない(したとしたら意味を成さない) ということです。 しかし、私(・・・を含めた多数の人々)が「数学によってなされることは実は間違っている!」などと掲示板で議論しようとしないのは、客観的事実(自明な事象)に基づいて成り立っているからです。 (自明な現象を否定することは即、自己存在の否定にまで連鎖してしまいますし。) つまり、今計算をして1+1+1が3になるのは肉眼で観察される事実です(本当は定義ですが。)し、ゴキブリが存在する(した)のは客観的事実です。私が存在するのも事実です。(ここら辺は海さんとの「神学論争に当たっての基本的原則」で議論しました) 生き物は確かに居ますし、地球上の生命がものすごい確率を潜り抜けて今の人間ができました。 しかし、それが果たして「神によるもの」としていいのだろうか?神がいたとしてそれが人間を特別視しているのか?特別視していたとして果たして人間に好意的だろうか? それらを考えてみたときに、人間の決めつけを感じざるを得ません。 神を仮定しなくても今の世界は導けるし、神を仮定しなければ世界の悲しみは上手く説明できる。(むしろ仮定したほうが超自然的悪意を感じる) 自明な現象で成り立っていないのに、はたして信じることが正しいのでしょうか? それなのに、全く実証されていない、神を信じるのが果たして正しいのでしょうか? むしろ、第二不完全性定理を破ってしか、また、自身の正しさを自身によってしか、証明のできない(しない)キリスト教が間違っているように思えるのです。 そして、そこに「疑う余地」が発生し、自明に正しい数学と比べて完全な信頼が寄せられないのです。 (そもそも数学は事象を「このように起こっているのではないか」と説明する類のものではなく、事象自体に名前をつけて相互の関連から関係性を導く学問だと理解していますし。) ******* それで私は、無神論を信じるには至らないが、いわゆるキリスト教を信じる根拠も同様に無い、と考えているわけです。 ******* おそらく、Aからそれ以下のHSさんのレスの内容が出てきていると思うので、今後の意見交換の中心はこのレスの上記の内容、あるいはNO27についてになると思います。 ******* (意見交換の流れに沿いませんが一応・・・。) HSさんのホームページを見ていて、「永遠の命」という記述が在ったのですがこれは私にとって恐怖と嫌悪の対象であり、避けるべきものです。 (理由は、求められれば書きますが、長いので今は書きません) Re: キリスト教談義 ( No.33 ) 日時: 2006/06/27 21:24 名前: 常見 こんにちは。αΩさん。 「自由意志」について、私自身ももっとよく考えてみたい気もしないではないですが、私の書き込みが遅れている間に、ある意味このスレの核心に近づいているかのようにも思えます。 結局のところ、その人が何を信じるのかだと思います。 どれだけ理論と理屈を並べたところで、その人が信じるものを前提に理論を積み重ねていくだけのことです。 聖書が正しい。神は存在する。ということを証明できないのと同じように… 聖書が正しくない。神は存在しない。ということも証明できないのですから…。 例え証明できる、としてもその前提はどちらかに立つ場合にのみできるといえるでしょうから…。 だからと言って、意見を交換することが無意味である…とは言いません。 ですが、自分勝手な意見かもしれませんが、私もHS先生も以前はαΩさんと同じ立場で物事を考え、同じように聖書が正しく、神は存在する、という立場ではなかった側の人間だったのです。 けれども、「違う世界」があることを、なぜ信じ得ることができたのかを言葉で証明できない(ここがポイントなんでしょうけれども)んですけども、以前の前提とは全く違う世界に入ったんです。大前提がひっくり返ったのです。 そのどちらかを選択するのは全くの自由です。それこそ自由意志を用いて選べばいいのです。 では、なんでこうして、HS先生や私がこうしたやり取りをしているか…ですが、αΩさんも聖書をある程度読まれればわかると思いますが、私たちの前提である聖書には「全世界にこの福音を宣べ伝えよ。」とあるからです。そんなに難しい話ではありません。 頭の賢さで言えばクリスチャンよりも賢い人は多いしでしょう。その賢い人たちに全く違う前提を説きつづけるクリスチャンとはまったく馬鹿げた存在です。それでも語りつづけるのですよ。我々は…。 また、論理よりも情緒が大切である、なんてことを言われる方もおられますが、私もそう信じています。 美しい、正しい、怖いと感じるその自分の感性を信じます。 話を大きくそらしたことに関してはお詫びします。 つまるところ何を信じるかは論理で信じるのではなく、信じたいものを信じるというという結論になってしまうのではないでしょうか。 Re: キリスト教談義 ( No.34 ) 日時: 2006/06/28 16:00 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s たぶん私が「それは〜〜〜という前提で考えていませんか?」のような発言をしたから、常見さんは「〜を前提として話すしかない」と考えて折られるのかもしれませんが、 私はこのスレを「キリスト教は正しい」という「前提」を検討する場だと思っています。 順番は前後しますが・・・。 >>頭の賢さで言えばクリスチャンよりも賢い人は多いしでしょう。その賢い人たちに全く違う前提を説きつづけるクリスチャンとはまったく馬鹿げた存在です。それでも語りつづけるのですよ。我々は…。 話し手の頭の賢さと(私が)信じることには何の関係もありません。いくら頭が悪くても、正しいことを言っていると判断できれば私は信じますし、どんなに頭の賢い人でも間違ったことを言っていれば当然信じません。 >>結局のところ、その人が何を信じるのかだと思います まぁそうなんですが、私は間違っていると思うことは信じたくは無いので、「信じる」対象は正しくないと納得できないのです。 それで今、前提の「キリスト教が正しいのか?」について意見を交換しているわけで・・・。 >>聖書が正しい。神は存在する。ということを証明できないのと同じように… >>聖書が正しくない。神は存在しない。ということも証明できないのですから…。 >>例え証明できる、としてもその前提はどちらかに立つ場合にのみできるといえるでしょうから…。 (正しいか正しくないかの判断がなされない以上、前提というか、決め付けの類だと思いますが・・・。) 二つの前提、とのことですが、それは「キリスト教が正しい」と「それ以外(どちらともいえない、正しいと思わない、etc・・・)」ですか? それとも「どちらかの前提」以外にも「前提の類」があるのですか? 前者だとすれば「どちらかの前提」とは「何らかの前提(予備知識も含む)」に言い換えられるので、 [前提をもって考えていることが無意味(=どちらを選択するのも自由な問題)だとすれば)] 「どんな正しいと思える証明も、正しいか正しくないかの、どちらかの前提で考えている」→「よって、全ての証明は、個人の感情で左右されてしまう(!)」→「よって全ての証明は意味が無い(!!)」 となり、「どんな証明も無意味」で「全ての論理(日常生活での思考も含む)も無意味(なくさなければならない)」ということになってしまいます。これは正しいと思えません。 後者だとすれば、「どちらかの前提」とは何と何かを明示していただかないと話が進みません。 >>美しい、正しい、怖いと感じるその自分の感性を信じます。 「正しい」は感性ですかね・・?たとえば、「一目見た印象で正しいと感じる」でさえ論理が介在しているように思うのですが・・・? ************ まぁ、(キリスト教が正しいか、正しくないかの)結論が「キリスト教は、キリスト教が正しいと証明することは出来ない。しかし、間違っていると証明することも出来ないのだから信じるのは個人の自由だ」というものでしたらそれでいいですけど・・・。 Re: キリスト教談義 ( No.35 ) 日時: 2006/06/30 02:57 名前: 数吉 哲学の部屋ですか?哲学、数学、語学、物理学、音楽、美術、書、知っていいですよねえ。知、情、意、人間。I am human. Being human. Human being. I am a human being. 僕は心情的な存在。僕は魂。僕は体。僕は心。神は霊。神は自然。神は思い。キリストイエス、彼は清い幼子。彼は慈しみの青年。哀れみの青年。救いの人。 Re: キリスト教談義 ( No.36 ) 日時: 2006/06/30 10:59 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s >>哲学の部屋ですか? 別に哲学に限らず、キリスト教について語っていただけたらけっこうです。 もちろん間違っている、と思ってしまったところは反論したり否定したりしますけども。 >>知、情、意、人間。I am human. Being human. Human being. I am a human being. 僕は心情的な存在。僕は魂。僕は体。僕は心。神は霊。神は自然。神は思い。キリストイエス、彼は清い幼子。彼は慈しみの青年。哀れみの青年。救いの人。 根拠なしに信条だけ挙げていただいても解りにくいので、それぞれ少し詳しく説明していただきたいのですが・・・ 最後の から見るに、微妙に荒らしですかね・・・? Re: キリスト教談義 ( No.37 ) 日時: 2006/07/01 12:39 名前: 常見 こんにちは。αΩさん。 今日は、NO34のαΩさんのコメントの前半を読んで感じたことについて書きたいと思います。 例えば>「正しいことを言っていると判断できれば私は信じますし…」「私は間違っていると思うことは信じたくは無いので、「信じる」対象は正しくないと納得できないのです。」「(正しいか正しくないかの判断がなされない以上、前提というか、決め付けの類だと思いますが・・・。)」などですが…。 もちろんこの気持ち、とってもよくわかるんです。 私もそうでしたから…。 でも、このコメントの前提には「<私」は完全に正しいことを判断することが可能である。>ということが挙げられるかと思うのですが、今は、聖書を前提としている私の意見としては、<人間は不完全であるので、完全に正しいものを理解することは不可能である。完全なものこそ不完全なものに何が完全であるのかを教えること、伝えることが可能である。>となります。 「完全」という単語が適しているいるかどうかは少し自信がありませんけど…。 聖書では「不完全」な状態を「罪」として表しています。ここに大きなポイントがありますが、いわゆる「犯罪」は少し脇に置いておいて、αΩさんが自身のことを「不完全」→「罪」(抵抗を感じますか?)の状態であると認識しているかどうかです。 聖書の「神」は自ら「わたしが主である。わたしの他に神はいない。」と豪語し、「完全」であることを主張します。あなたがわかろうがわかるまいがわたしこそ完全なものであるという主張です。すべての人間は真に正しいものを見たら正しいと判断することができるという前提であるなら、聖書の神が真に正しい場合、全人類が聖書の神を信じることになっているでしょう。しかし、実際にはそうではありません。聖書はそのことも言い当てていますが…。 そして、聖書に書かれていることが正しいとする者も「結局は聖書が正しいと自分で判断しているだけではないか?」という問いも生まれてきます。 自分は不完全であることを認めて、聖書の神が完全であると認めてもその判断は完全であるとしている、ということも言えますから…。 で、結局、また、人間主体の思考に戻るわけですが、もう、堂々巡りですね。 それから、余談ですが、私はキリスト教が正しいというつもりはさらさらありません。αΩさんには同じことになるのかもしれませんが、私は聖書に書かれていることは全て正しいとする立場の者ですが、いわゆるキリスト教は人間が主体となっている教えです。完全なものをベースにした不完全な人の集まりとその教えだと考えています。 聖書が教えていることから逸脱しても、キリスト教と呼ばれることもあれば、クリスチャンである…と名乗ることも可能です。 HS先生も書かれているようにどこまでも鍵は聖書なんです。 聖書が正しいか、「私」が正しいか、もしくは、それ以外か…。 決断する主体はもちろん「私」ですが、何を完全とするか…を聖書を完全に読んでみて決めていただければ…と思います。そしてもし、聖書が正しいとするなら…という仮定で物事を見ていただけたら…と願うばかりです。 Re: キリスト教談義 ( No.38 ) 日時: 2006/07/01 12:44 名前: 常見 ごめんなさい。聖書を完全に読む…と言うところは訂正します。(また、やっちゃいました。すみません…) なんか完全、完全て書いてるうちに無意識に書いちゃいました。次からはパスワード入力してコメントしますね…。 Re: キリスト教談義 ( No.39 ) 日時: 2006/07/01 15:57 名前: HS >>No.26 >しかし、クリスチャンが聖書を信じ、神を信じ、 >イエスキリストが救い主だと確信するにいたったのは体験です。 >別な言い方をすれば、聖霊のなせる業、ということになります。 >敗北感を感じた私は、自分の感情と、体験と、聖書の言葉が >一直線でつながる感覚が何度も体験によって繰り返されました。 >・・・そういう過程を経て、私のクリスチャン人生が始まってしまいました。 >それに迷いはありません。 yonaさんの証を知ることができて、感謝でした。 主は、各々の人を、各々の方法で導かれているんですね。ありがとうございました。 Re: キリスト教談義 ( No.40 ) 日時: 2006/07/01 17:02 名前: HS αΩさんへ。 こんにちは。返信ありがとうございました。 (関係ないことですが、私の好きな陸上の日本選手権が始まりました。 サッカーのワールド・カップも面白いですが、陸上もまた、違った面白さがあります。) さて、今回の返信で、かなり、αΩさんの、考え(のポイントの一つ)を理解できたように思います。 (勝手な感想で、失礼ですが)ぜひ、神と出会って、神の栄光を表わす、聖書教理学者(神学者)になって頂きたいと思いました。 @ ゲーデルについてご存知とは、少し驚きました。勉強家ですね。 これに関する部分は、もう少し、ゆっくり検討させていただいて、(私の力量が、もし、及ぶならば、その範囲内で)返信を書かせて頂ければと思います。(もう少し、時間をください) A >生き物は確かに居ますし、地球上の生命がものすごい確率を潜り抜けて今の人間ができました。 >しかし、それが果たして「神によるもの」としていいのだろうか?神がいたとしてそれが人間を特別視しているのか?特別視していたとして果たして人間に好意的だろうか? >それらを考えてみたときに、人間の決めつけを感じざるを得ません。 これは、「進化論」を前提とした考察のように拝見しましたが、私は、現在、「創造論」を前提としていますので。。。 (私は、HPにも書いていますが、基本的には、創世記の記述に沿った「創造論」を採用して考えた方が、いろいろな問題を、整合性を持って考察できる・・・・などの理由で、「創造論」を現在のところ、採用しています。科学的な、考察の裏づけも含めて、ですが。もし、興味がおありでしたら、「創造論の世界」(久保有政著、徳間書店)を、ごらん下さい。) B >それなのに、全く実証されていない、神を信じるのが果たして正しいのでしょうか? ひとつ、質問させて下さい。 (いじわるな質問のように感じられるかもしれませんが、まじめに質問していますので、 ご容赦くださいね。) 一般論として、αΩさんは、「完全には実証できない、子に対する親の愛」を、子が信じるのは、正しいと思いますか? (「完全には、実証できない」という意味は、もしかしたら、親は、「自分を出世させて、自己満足を得たいため」に、自分を育てているのだ、という考えも可能である、という意味です。) というのは、「今の私」にとっては、「神を信じる」ことは、その問題と、かなり近いもののように思えるのです。 C >HSさんのホームページを見ていて、「永遠の命」という記述が在ったのですがこれは私にとって恐怖と嫌悪の対象であり、避けるべきものです。 そうですか、お気持ちは(何となくですが)わかるような気がします。 もし、「つまらない日々が、永遠に続く」ならば、確かに、恐怖ですね。 しかし、私は、「悲しみも、痛みもない、素晴らしい所で、 神を賛美しつつ、また、神の知恵と栄光を楽しみつつ、文字通り『いつまでも、幸せに暮らせる』」ことは、「最高の幸せ」ではないだろうかと思います。 具体的に、神の国・天国で、何をするかは、あまり詳しくは聖書に書いてないようです。 私は、「天国は、永遠に生きるのにふさわしい、素晴らしい所である」と信頼していますが、 なぜ、信頼しているかというと、 @「永遠に天国で生きることになる人間」に対する、神の愛と準備を信頼しているから。 A「信仰によって」信頼している。 ということになります。 (黙示録21:4など) Re: キリスト教談義 ( No.41 ) 日時: 2006/07/03 16:05 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s >常見さん (NO37) >>でも、このコメントの前提には「<私」は完全に正しいことを判断することが可能である。>ということが挙げられるかと思うのですが、今は、聖書を前提としている私の意見としては、<人間は不完全であるので、完全に正しいものを理解することは不可能である。完全なものこそ不完全なものに何が完全であるのかを教えること、伝えることが可能である。>となります。 とりあえず極力(議論するために不要な)前提を排除するために「完全な判断が出来るか出来ないか、考えたことすらない」とし、場合を分けて考えて見ます。 ("完全"とは否定形が産む幻想ではないか?(NO27)とか、何を以って完全とするか?とかはとりあえず置いておきます。一般論で。) @、常に完全な判断をするとした場合(正しいことは常に正しいと判断できるし、正しくないものは常に正しくないと判断できる。) この場合、複数の人間で正誤の判断をめぐって話し合いが起きることは無い。が、実際に話し合いが起きているのでこれは正しいとはいえない。 A、常に間違った判断をするとした場合 この立場をとった場合、「この立場をとること自体が間違い」という矛盾が生じる。これに対し、「矛盾も判断だから、矛盾していない」ともいえるがそれも判断である。 最終的に「人間の判断が全て間違い」だとするならば人間は判断をすること自体が無意味だということになる。結局、自己言及(第二不完全性定理?)の文であり意味するところがない。 (それと、完全を認めることも判断ですし、そもそも、他の主張を退けることも判断ですね・・・) ******** 勝手な心理分析をすると、この命題では「自分の考えを否定したい」ようですから少し私の意見を受け入れてくれた(→自分の意見に取り入れてくれた)のかな〜、とか。(この文、とりあえず無視の方向で) ******** B、間違った判断をする場合もあるし正しい判断をする場合もある、とした場合 この立場を取ったとき、特に矛盾は生じない。 結局、破綻が無いという意味で、意味を成すものはBだけしかないためBをとらざるを得ない訳です。 で、今議論している話題、「キリスト教の正しさ」(聖書の正しさも?)に戻るみたいです。 Re: キリスト教談義 ( No.42 ) 日時: 2006/07/04 14:50 名前: αΩ(Tranquillity)◆toY.cJFRz.s >HSさん (NO40) >>A〜〜〜これは、「進化論」を前提とした考察のように拝見しましたが、私は、現在、「創造論」を前提としていますので。。。 一応、「神は居るのか居ないのか」あるいは「信じるのが正しいのか?」の路線ですので、"科学?"の視点から書かせていただきました。 しかし、「神が創造したとしていいのか?」という書き方でも、別に結構です。 >>B〜〜〜一般論として、αΩさんは、「完全には実証できない、子に対する親の愛」を、子が信じるのは、正しいと思いますか? とりあえず「完全には実証できない親の愛の"存在"」を信じるのは正しいか?という趣旨で行きたいと思います("存在"が抜けていると、実証されている文脈になってしまいますので) 信じるとのことですがそれが、あることを前提としそれに頼って行動することだとしたら正しいとは思いません。 しかし、この問題と神の問題(キリスト教の?)との違いは大きく、親の存在は自分の存在から確実なことに比べて神はそうではないこと、たとえ"愛"と呼ばれるものでないにしろ結果的に子の利益は親の利益になる場合(当然満足感なども含めて)が多いこと等があるでしょう。  特に前部は重要なことだと思いますが・・・。 >>C 以前にノートに考えをまとめた際書いたものがあるのでこの機会に打ってみようと思います。 けっこうあるのでしばらくお待ちを。